海外で日本
齋藤 裕 さん

B回目
元鹿島建設勤務



今回のアルジェリアでのテロ事件について考えたことを、自分の 体験を元に書き記してみたいと思います。





ニュースを見てまず考えたこと
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1月16日、アルジェリアで日本人がテロ組織に拘束されたらしい とのニュース速報がテレビのテロップで流れたとき、日揮が南で 仕事をしていることは知っていましたが、私は即座に、以前勤務し ていたアルジェリア高速道路プロジェクトの数多くある現場のどこ かが襲撃されたと信じて疑いませんでした。

理由は、日揮の現場は砂漠の真ん中で一箇所にまとまっており、 接近してくる車両はすぐ発見されること、プラント自体が国の最重 要施設の一つなので最も厳重な警備体制が敷かれていることで した。

それに比べると地中海に近い南側の高速道路プロジェクト(セティフ 〜コンスタンティーヌ〜アンナバ〜チュニジアとの国境までの400km)は距離 が長いため多数の現場に外国人が点在しており、事務所と現場 との間の移動が頻繁であり、警備自体が非常に難しいためでし た。

日本政府の「人命第一」の考え方は?
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しばらくして、英国、フランス、米国、日本の反応が報道されまし たが、私は正直なところ日本政府が「人命第一」を掲げたことに違 和感を覚えました。

どこか対岸の火事を見ている人の感想という印象を持ったからで す。

他国のテロとのこれまでの戦いは・・・
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アルジェリアにとっては過激派のテロと戦った90年代の悪夢を思 い出させる重大事件であり、英国やフランスはアラブからの移民を 相当数抱えており、この事件が何らかの形で影響を与えることは 何としても避けなければならないし、米国は常にイスラムテロ集団 の標的になっています。

この事件の処理を誤ると自国内で暴動が発生するか、国外の自 国民や施設が攻撃にあう危険性をはらんでいました。

また、最も厳しい警戒態勢が敷かれているはずのプラントにやす やすとテロ集団を侵入させてしまったアルジェリア軍のメンツは丸 つぶれで、彼らが厳しく報復する可能性も考えられました。

「人命尊重」は当然、しかし・・・
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このような状況の中で、テロ集団に対し外国人を人質にとっても何 にもならないという教訓を与え、彼らに活動資金を与えないために も、テロとは絶対交渉しない妥協しないという毅然とした態度を示 すことがどうしても必要だったのではないかと思います。

「人命尊重」は当然、しかしテロ集団を撲滅することも重要。

この間で、アルジェリアや欧米は、多少の犠牲者を出しても今後 このような事件を起こさせないために「テロ集団は撲滅する」ことに 重点を置き、日本は「人命尊重」に軸足を置いていたと言えます。

この日本の考え方が、グローバル化した世界の中の日本を考え たとき通用するかどうか、我々はもう一度考えてみる必要がある のではないかと思いました。

その昔、超法規的措置を取った日本
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例えば、その昔、連合赤軍が日航機をハイジャックし、人質と収監 されていた赤軍メンバーの解放と身代金を要求したとき、時の福 田首相は「人命は地球より重い」と言って超法規的措置という名 のもとにメンバーを開放し、16億円支払いました。

この措置は、報道によると外国からテロに活動資金を与えたとし て批判されました。

アルジェリアで通算10年赴任しました
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私は計3回(@1975-76、A1980-86、B2007-08)アルジェリア に赴任し通算10年住みました。

1回目、2回目は自由に外出や旅行することができましたが、3回 目はカゴの中の鳥、動物園の猿状態でした。

幸い怖い思いはしなかったが、テロに襲撃されたら最悪のことを 覚悟するしかないと思っていました。

大使館は遠く離れていて当てにならないし、キャンプのにわか警 備員は信頼できないし、地元の警察も命を張って我々を守ってくる か疑問だったからだです。

我々のように外国で工事を行なっている民間企業にできる防衛策 は、契約金に縛られているため限られています。

対策としては、例えば現地の大使館がアルジェリアの政府、軍や 情報機関、宗教的指導者などに普段から食い込んでおいて、いち 早い情報の入手に勤め、危険だと思われる情報を入手したら、現 地政府、客先の政府機関を説得して外国人を安全なところに退避 させるなどの措置を取れる体制を確立することでしょうか。

日本は安全で平和な国ですが・・・
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2003年、5年のスペイン駐在を終え横滑りでタイに赴任しました が、タイに住み始めたとき、自分が心理的にリラックスしているの を感じました。

これはイスラム教やキリスト教の国に住んでいるとき、自分は外 国人だということを常に意識させられていたが、タイでは周りの人 の顔つきが似ていて国民性が穏やかであるせいだと思いました。

しかし、タイ人のあの魅力的な微笑みが、夜の世界では「キリン グ・スマイル」で、要注意であることにやがて気づかされました。

日本に住み始めて5年目に入りましたが、つくづく日本は安全で平 和な国だと感じています。かえって、こんな「平和ボケ」日本で将 来大丈夫だろうかと心配になります。

齋藤さんの1回目の記事はこちら
       2回目の記事はこちら
プロジェクトの警備とは
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私が従事していた工事の警備の難しさについてもう少し詳しく説 明しましょう。

距離が長いため、工事は全体を7工区に分け私は第2工区(通称 キャンプ2、約104km)でアドミの責任者として勤務していました。

メインのキャンプ(事務所と宿舎)を工事区間の真ん中あたりにお き、各工事現場の近くに住んだほうが効率がいいことから途中、 何ヶ所かの街に外国人用にアパートを借りました。

客先からは外国人の事務所や宿舎に24時間武器を持った警備員 を配置するよう命じられていたので、民間の警備会社と契約して 配置していました(警備会社の社長は主に軍人あがりで、我々は 軍人や警察官の再雇用先と陰口をたたいていた)。

宿舎を囲む塀と警備塔

特にメインのキャンプは高さ4mぐらいのブロック塀で周囲2kmを囲 み要所に警備塔を建て、一箇所の出入口にも銃を持った警備員を 複数配置し出入りの車や人をチェックしていました(それにもかか わらず、キャンプ内から物を持ち出す泥棒は減らなかった)。

警備のハード面はキャンプを使用する前に軍人もメンバーである 県の安全委員会に「安全計画書」を提出し、軍人の視察を受け、 承認された後でないと使用できませんでした。

この工区で働いていた人数は、最盛期と思われる2008年12月の 時点で日本人97名、第三国人1285人(国籍は16ヶ国。エジプト人 も日本語/アラビア語の通訳として10名ほどいました)、アルジェリ ア人1435人でした(このうち外国人の大半はキャンプに住んでい た)。

この人数が毎日何十箇所もある現場に散らばり、それを日本人の エンジニアが朝から晩まで現場を走り回って工事管理を行なって いました。
エスコート(前後に警備車両)

客先からは、外国人の移動にあたっては警察のエスコートを付け るように、そのためには24時間前に依頼書を提出するように厳しく 言われていましたが、現場は毎日変化しており、本部での定例会 議などではない限り、2日前に予定を出すことはほとんど不可能で した。

また、警察の方も人手が足りず、遅れてくるのは当たり前、ドタキ ャンも頻発しました。そこでいつの間にか、大移動でない場合はエ スコートなしで移動するようになりました。客先もエスコートの手配 を遵守すると仕事や工事の予定が立たなくなるので黙認していま した。ただ、何か事故があればそれ見たことかと我々が責められ ますが。

イスラム過激派による事件は起こりませんでしたが、ちょっと外れ た山の中では軍の掃討作戦で過激派やその支援者が射殺され たとか、警察署が襲われたというニュースは聞いていましたので、 事件が起こらなくて本当にラッキーだったと思っています。

キャンプ(=職場兼居住区)での生活
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ところで、今回の事の報道でキャンプ(=職場兼居住区)が、我々 がここでどういう生活を送っていたかご紹介しましょう。
宿舎と事務所

キャンプ2は敷地が広く、この中に事務所4棟、住居棟各種(日本 人の場合全員4疊半ほどの個室でインターネット可能)、食堂(コ ックは日本人とインドネシア人の2人、日本人用と第三国人用2 棟)、小さな体育館、娯楽室(図書棚、大型TV、卓球台、カラオケ など用意)、テニスコート2面、ソフトボール場、ゴルフ練習用鳥か ごなど建設しました。

宿舎の個室

勤務は土曜日から木曜日まで、勤務時間は8時30分から17時30 分。普段は毎朝7時30分から30分ほどミーティングしてから仕事 開始。

夜は現場から戻ってきたエンジニアが遅くまで残業していました。

休みの金曜日、外出組はコンスタンティーヌや近くの温泉(海パン 履いて丸い温水プールや個室の浴槽に入る)に行ったり、羊の牧 草地に作った荒地ゴルフコースでゴルフを楽しんだり、他の工区を 訪ねラグビーの練習をしたりして過ごしました。

宿舎群とテニスコート

当然、初めの頃はエスコートをつけていましたが、ドタキャンが多 いので自分たちで出かけるようになりました。キャンプ内で過ごす 人は家族とスカイプで話しをたり、野菜畑の手入れ、ソフトボー ル、テニスなどをやって過ごしていました。

インドネシア人やマレーシア人のイスラム教徒は歩いて10分ぐら いの町にあるモスクにお祈りに出かけていました。幸いワインやビ ール、帰任者の土産の酒などアルコールには不足しなかったので 助かりました。OO大会、OO赴任歓迎会など理由を付けては宿舎 で会食を開いていました。

しかし、高い塀で囲まれたキャンプは牢獄のようなもので、そのう ちにストレスがたまってきます。時々朝方警察から客先を通して、 「何月何日の夜何時ごろおたくの外国人何人、OOOの町を歩いて いた。エスコートなしに街の中を歩くことは禁止されている云々」と 書かれたレターを受け取りました。

やはり外国人は監視されていました。こんな中で唯一の楽しみは 6ヶ月に一度の帰国休暇(20日間)でした。




  



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