|
●山西實先生の経歴
対馬高校(3年)→壱岐高校(4年)→長崎西高(18年・最後の年は教頭)→佐世保北高校(3年)→
長崎県教育庁・総務課(2年)→長崎南商業高校(校長・2年)→島原工業高校(2年)
→西陵高校(4年)退職
|
|
島原工業高校赴任時にはあの「普賢岳噴火」を経験され、かなり大変な毎日だったようです。
●西高在職中に顧問を引き受けた運動部
|
スポーツ万能の山西先生はいろんなクラブの顧問を引き受け、すべて強いクラブに育て上げ
ていかれました。
|
■最初はバスケット部の顧問(5年間)
十九回生が西高に入学した次の年に、先生は西高に赴任されています。
その頃のバスケット部は強かったですよね。
■次に陸上部の顧問(3年間)
男子陸上部、長崎県高総体総合優勝!!
■野球部顧問(10年間)では偉業を達成!!
顧問を引き受けた頃の西高野球部は部員数、たった11名のクラブでした。西高の狭いグラウンドを
野球部が占領してしまうので、廃部にしようかという話すらあったそうです。
しかし、顧問となられてからは素質のある生徒を部員として迎え入れ、せっかく入部した部員がや
めていかないように毎日1度は必ずグランドを覗いたとのこと。
2〜3年たった時、甲子園に行くにはあと数年はかかると思われたそうです。
そして9年目、昭和56年63回大会にみごと甲子園出場!!
初戦で今年巨人から横浜に移籍したあの”工藤投手”との対戦で悔しい思いをしましたよね。
しかし、県立の普通高校を甲子園に行けるまでに育て上げられた、山西先生の手腕はすごいもの
です。
(もちろん、野球部のOB、時の斎藤監督の存在が大きかったことは言うまでもありません。)
|
|
●もしも教師になってなかったら
特定郵便局長(局員20数名)であった父が、大学4年在学中に脳溢血で急死。卒業後、局長とな
る道もありましたが、お金を取り扱う仕事には絶対就かないと思っていました。しかし教師になれて
いなかったら、郵便局で仕事していたかもしれません。(山西先生談)
|
|
●退職後の超多忙な生活
・調停委員(民事・家事)
・壱岐市芦辺町民生児童委員会長
・原の辻遺跡保存整備委員会管理運営施設部会委員
・壱岐國博物館(仮称)等推進委員会・委員長
・壱岐市文化財保護審議会・会長
・壱岐市明るい選挙推進委員
・地区老人会会長
これは山西先生が現在引き受けていらっしゃる役目のほんの一部です。
更に山西美佐子先生が11年に渡って続けていらっしゃる「レインボーコンサート」の顧問もされてい
ます。
|
|
|