森先生は2013年1月1日、お亡くなりになられました。




先生の同級生が最近オープンした大村にある農村レストラン。こちらでお話を伺いました

バイキングでたくさんの種類の料理が揃っています。

大村にいる間は毎日のようにここにいらっしゃるそうで、料理の取り方もなれたものです。

若いお客さんの間でマイペースで気に入った料理をチョイス。

ちゃんとバランスよく選んでいらっしゃいました。



発行所 出島文庫
発行日 平成16年8月26日

上記「句集 淡墨桜」には445句が収められています。私だけが読ませていただくにはもったいないと思い、その中から私の独断で右の俳句を選ばせていただきました。
森先生の教師生活、人生の節目などがよく分かります。

三浦

この大村帰省より千葉のご自宅へに帰られましたらビッグニュースが待っていました!

瑞宝小綬賞を受けられることが決まりました。

森先生おめでとうございます。

●森先生の経歴

(私立)西海学園→大村高校→諫早高校→長崎西高(13年)→長崎県教育センター
→長崎県学校教育課(長崎北陽台高校設立準備委員)→長崎北陽台高校(3年)
→猶興館高校(教頭・3年)→長崎県教育センター→北松西高(校長・3年)
→大村高校(校長・3年)退職→大村市教育長(5年2ヶ月)

●西高在職中に印象に残っていること

■何の知識もないのに、その当時西高になかったブラスバンド゙部の顧問になりました。
生徒の指導をするというより、生徒の演奏に合わせて私がタクトを振るという感じでした。

■その当時、川口弘先生がラグビー部の顧問だったのですが、ひとりでは大変ということで私ともうひとりの先生が顧問に追加されました。しかし、ラグビーを指導するのではなく、試合に行く時救急箱を持って行くだけの役目でした。

■運動会の「もしも教師でなかったら」では「バッハ」の扮装をやりました。

補習をやらないことが西高の伝統でしたので、西高の先生は添削指導などにほんとうによく頑張ったと思います。

■西高の先生方は学究肌で個性の強い先生が多かったのですが、忘れられないエピソード、

その当時、生徒が花を持ってきて教師の机に飾っておいてくれました。私のそばに席があったある先生が、自分の机に飾ってあった菊の花をもいで自分のお弁当にかけて食べました。
これには驚きましたね。

■3年の時の担任だった5組の男子生徒にも個性的な生徒が多くて、はらはらさせられました
  (もちろん十九回生の事です。)


●国語教師になったきっかけ
  
人生を決める恩師との出会い

 運命といえば、恩師との出会いが私の人生を決定づけた。多感でもない平凡な少年は、学級担任の増田信一先生、郷土史部顧問の志田一夫先生の魅力にひかれていった。お二人とも国語科の先生であった。高校卒業を目前にしたある日、両先生は、「君は進学をして国語教師となるために勉強してみないか。君が一人前になるころには、私たちは本校にいないかもしれない。後継者となる積もりで頑張れ」と、ありがたい言葉をかけてくださった。なかでも、志田先生は、俳号をろせと称され、部活動内容に指導助言を加えながら、俳句について興味深い話をなさった。また、玖島城へ行き、城壁について説明をしながら、即吟の俳句を披露なさる姿にいたく感銘した。先生が「俳句の創作は、平凡な風景の中に起こる変化を、素直にまとめることから出発することだ。虚子先生もそういって指導しておられる。」などとおっしゃると、自分も簡単に出来そうになっていくのであった。こうして進学することを決め、高浜虚子研究に精をだすことになった。まさしく仰げば尊しわが師の恩である。

 もうお一人、高校生活の中でお教えをいただいた国語科の竹下哲先生のことも忘れられない。先生は授業の神様であった。のち、私が県教育センター所長となられた竹下先生のもとで勤務することになろうとは知るよしもなかった。センターでは、教育のあり方について特に温かいご指導を受けた。大学卒業後、佐世保の西海高校に常勤講師として勤務したが、30年12月に突然母校から呼び出しを受けた。行ってみると、学級担任として2年間お世話になったあの増田先生がご病気、志田先生は勇退なさるという。このときほど、運命というものを痛感したことはない。私は許しを得て母校に赴任した。そこでは、夜間定時制に籍を置き、勤労学徒とともに生活するという貴重な体験をした。志田先生のご退職、増田先生のご逝去。昼間は授業の加勢をし、両先生のご恩に報いようと努めた。

(長崎新聞 昭和57年10月15日掲載の記事より)


●俳句人生
  
■俳句はろせん師のご指導で、高校2年からつくりはじめた。先生の前に作品を提出することは恐
ろしかった。しかし、○印や◎印をつけていただいた日の喜びは格別であった。私はここでほめる
教育の素晴らしさを教えていただいたように思う。
(長崎新聞 昭和57年10月15日掲載の記事より)

■私の俳号はろせん先生に決めていただき「森大鈴」といいます。

■昭和56年2月から県内の中学生、高校生が俳句、短歌を創作し発表する場を設けたいという長
崎新聞社よりのお話をいただき、私は俳句欄の選者を仰せつかりました。ジュニア俳壇は多くの
方のご理解、ご支援により、またたく間に投稿作品数が増え入選率が10倍、15倍とふくれあがる
と共に質の向上もめざましいものでした。このジュニア俳壇の選者としての仕事は実に19年間も続
きました。

■俳句を初めて40年以上になりますが、平成16年8月にそれまで作った俳句のほんの一部を掲載
した句集「淡墨桜(うすずみざくら)」を発刊いたしました。
下記はその中の一部です。


石蕗咲いてグラバー邸へ抜くる径
春愁や言ひたきことを言ひそびれ
端居して心にゆとりとり戻し
散髪の鏡の中を日傘過ぐ
爆死せし子に墓洗ふ日の来たり
蝶が来る耳頬欠けし天使像
よろめくと見えしが独楽の立ち直り
はづみゆく赴任の道や木の芽風
ゐ眠れる者は捨てをき夜学教師
スタンドの笠を涼しき色に替ふ
長崎のここも唐寺落葉踏む
ド・ロ神父遺品の中のちゃんちゃんこ
サングラスとりたる顔のおとなしく
葬送のラグビー旗まづ先頭に
背番号十一番のラガーの死
龍踊を終へし龍の目のおとなしく
ラグビーの救急箱の赤チンキ
答案を閲し終わりぬちちろ虫
チョーク折れ易き黒板梅雨に入る
転勤といふ淋しさの年迎ふ
先生の名指しに応へ涼しき瞳
腹巻のドルを気遣ひパリの旅
寒玉子一つを割れば足る自炊
人生の余白のごとし風邪籠り
父母の名を添へ謹慎の子の賀状
老舗守る覚悟の出来て卒業す
名月のことにも触れて講義終ふ



朝会の子らの数ほどとんぼ飛ぶ
我と子に心の距離のある炬燵
自炊より解き放たれて日脚伸ぶ
遊学の子を案じゐる置炬燵
板書の手止めて黙祷原爆忌
虻飛んで生徒集会落ちつかず
たまに打つ校長室の蠅叩
校長の孤独一人寒に入る
初講和思ひやりとは愛のこと
病む父のすぐに涙し虫の秋
磯明けに欠席の子の出初めし
一畝の葱置き去りに転勤す
父逝きしより張り合ひのなき帰省
浴衣着て外人教師退任す
全身に単語を詰めて大試験
職を退く心の準備去年今年
妻連れし表彰の旅秋高し
菊日和陛下こちらを向き給ふ
職を退く淡墨桜植ゑもして
胴上げの花に届かんばかりなる
年金のことにも触れて初日記
職退きし自由不自由秋深む
生徒群れバレンタインの日の廊下
梅咲いて悔いなき辞表提出す
退職や城下の桜吹雪浴び
肩書のとれたるわれにホ句の秋
古希の旅秋の穂高を支へ行く



■千葉に移り住んだ現在も、平戸「なんばん句会」や佐世保「松の芽句会」のメンバー20名ほどの
俳句を送ってもらい指導をするようなことを続けています。今ではこれが生きがいになっています。








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