■俳句はろせん師のご指導で、高校2年からつくりはじめた。先生の前に作品を提出することは恐
ろしかった。しかし、○印や◎印をつけていただいた日の喜びは格別であった。私はここでほめる
教育の素晴らしさを教えていただいたように思う。
(長崎新聞 昭和57年10月15日掲載の記事より)
■私の俳号はろせん先生に決めていただき「森大鈴」といいます。
■昭和56年2月から県内の中学生、高校生が俳句、短歌を創作し発表する場を設けたいという長
崎新聞社よりのお話をいただき、私は俳句欄の選者を仰せつかりました。ジュニア俳壇は多くの
方のご理解、ご支援により、またたく間に投稿作品数が増え入選率が10倍、15倍とふくれあがる
と共に質の向上もめざましいものでした。このジュニア俳壇の選者としての仕事は実に19年間も続
きました。
■俳句を初めて40年以上になりますが、平成16年8月にそれまで作った俳句のほんの一部を掲載
した句集「淡墨桜(うすずみざくら)」を発刊いたしました。
下記はその中の一部です。
石蕗咲いてグラバー邸へ抜くる径 |
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春愁や言ひたきことを言ひそびれ |
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端居して心にゆとりとり戻し |
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散髪の鏡の中を日傘過ぐ |
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爆死せし子に墓洗ふ日の来たり |
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蝶が来る耳頬欠けし天使像 |
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よろめくと見えしが独楽の立ち直り |
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はづみゆく赴任の道や木の芽風 |
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ゐ眠れる者は捨てをき夜学教師 |
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スタンドの笠を涼しき色に替ふ |
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長崎のここも唐寺落葉踏む |
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ド・ロ神父遺品の中のちゃんちゃんこ |
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サングラスとりたる顔のおとなしく |
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葬送のラグビー旗まづ先頭に |
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背番号十一番のラガーの死 |
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龍踊を終へし龍の目のおとなしく |
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ラグビーの救急箱の赤チンキ |
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答案を閲し終わりぬちちろ虫 |
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チョーク折れ易き黒板梅雨に入る |
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転勤といふ淋しさの年迎ふ |
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先生の名指しに応へ涼しき瞳 |
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腹巻のドルを気遣ひパリの旅 |
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寒玉子一つを割れば足る自炊 |
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人生の余白のごとし風邪籠り |
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父母の名を添へ謹慎の子の賀状 |
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老舗守る覚悟の出来て卒業す |
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名月のことにも触れて講義終ふ |
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朝会の子らの数ほどとんぼ飛ぶ |
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我と子に心の距離のある炬燵 |
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自炊より解き放たれて日脚伸ぶ |
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遊学の子を案じゐる置炬燵 |
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板書の手止めて黙祷原爆忌 |
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虻飛んで生徒集会落ちつかず |
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たまに打つ校長室の蠅叩 |
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校長の孤独一人寒に入る |
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初講和思ひやりとは愛のこと |
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病む父のすぐに涙し虫の秋 |
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磯明けに欠席の子の出初めし |
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一畝の葱置き去りに転勤す |
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父逝きしより張り合ひのなき帰省 |
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浴衣着て外人教師退任す |
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全身に単語を詰めて大試験 |
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職を退く心の準備去年今年 |
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妻連れし表彰の旅秋高し |
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菊日和陛下こちらを向き給ふ |
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職を退く淡墨桜植ゑもして |
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胴上げの花に届かんばかりなる |
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年金のことにも触れて初日記 |
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職退きし自由不自由秋深む |
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生徒群れバレンタインの日の廊下 |
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梅咲いて悔いなき辞表提出す |
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退職や城下の桜吹雪浴び |
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肩書のとれたるわれにホ句の秋 |
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古希の旅秋の穂高を支へ行く |
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■千葉に移り住んだ現在も、平戸「なんばん句会」や佐世保「松の芽句会」のメンバー20名ほどの
俳句を送ってもらい指導をするようなことを続けています。今ではこれが生きがいになっています。
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