遠山先生は退職後の5年間に17回も海外旅行をされたそうです。



下記は遠山先生の旅行記
「カンボジア プノンペン感傷流浪
紀行」よりの抜粋です。

●長崎西高後の経歴

  長崎西高(2年)→長崎南高・野母崎分校(5年)→五島南高(3年)→野母崎高(13年)→
  長崎南商業高(6年)→長崎工業高(9年)→退職


●遠山先生の短歌

 忘れゐしセレンディピティ*辞書に引く英語教師を辞めて久しき (*serendipityのこと)
serendipityは私の辞書を引くと何度か引いた印があり、頭に入らず忘れてしまっていたのですね。ふと新聞か何かで出くわし、引いてみたら、印がついていたという歌です。英語は忘れかかっています。この語は説明しにくい言葉です。
 
 手につけどうるはしと思ふ乳のみ児の菜の花色のうんこなるかな
お乳だけしか飲まない乳児のウンチは実にきれいなもの。舐めて、食べたくなります。手にくっついても、汚くありません。
麗しい菜の花色のウンコです。もちろんこれは孫を詠んだ歌です。

先生のお宅を訪ねるとすぐにお茶をたてていただきました。

時間があると本を読んでいらっしゃるということで居間にうず高く本が積んでありました。
 2003年の春、長崎県内4箇所で「瓊子里帰り」巡回展があり、5万人という驚異的な入場者を得て大成功に終わった。76年前、日米人形交流を通して親善友好をはかるという運動があった。アメリカから友好を求め日本に贈られた1万2千体の「青い目の人形」の多くは日米の戦争中に憎悪の対象として廃棄されたが、良心的な人々の手により全国で306体が「生存」している。

そのうち、九州に残る10体中、9体を集めて展示した。これだけでも、大変なことだが、この里帰り展の主役は「長崎瓊子」である。青い目の人形の答礼としてアメリカに送られたこの日本人形は、偶然にニューヨーク州ロチェスターで「生存」が確認された。これを借り受け一堂に展示した。言わば人形たちの同窓会である。答礼人形「瓊子」は当時の人形師の最高の技法を駆使した美術品であるため、貸与に際し、博物館側はかなり厳しい条件を課したので、その輸送や取り扱いに多額の費用がかかった。そのため、県内の多くの方々からご芳志を募った。

 最後に収支決算をすると、600万円の大金が残った。これを「長崎瓊子基金」とし、何か有効に使おう、と委員会を作りあれこれ案を出し、熟慮・検討をした。「巡回展」中に米軍のイラク攻撃が始まり、のんびり過去の友好・友情のノスタルジアに浸っていいのか、と自問することもあった。現代的な意義をこの巡回展も持たなければならない、とも考えていた。そして、検討の結果、カンボジアに学校を建てるという案に落着いた時、具体的に「現代」と結びついたような気がした。

 この程度の金額で学校が建つ!このことだけでも、驚きである。
600万円全額を、このことでは経験と実績のある長崎ライオンズ・クラブに寄託することとなった。同クラブはプノンペン郊外にラクスメイ・サマキ小学校を見つけ、その老朽校舎を建て直すことにした。さらに同クラブ国際基金から同じ額の援助を申請している。この申請の受理の可能性はきわめて高いという。この小学校に2棟の新校舎と職員室と新トイレが2004年5月末までには完成するだろう。そして、タマコ・ラクスメイ・サマキ小学校と「瓊子」の名前が冠せられることになっている。








 人形交流を計画・実施したギューリック博士は「世界児童親善協会」で「世界の平和は子どもから」というモットーのもと、メキシコへ通学カバン、フィリピンに実用品などを贈る計画をしたという。戦乱に疲弊しまだ十分に回復していないカンボジアの子どもに学校を贈ることは「瓊子展」の棹尾を美しく、意義深く飾る事業だと思う。
椰子の実を木陰に吸へば沙羅双樹長きねむりのごとく包める

クメールのあらき焼酎喉を刺す暑き霜月十日もとほる
遠山博文














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